『エリック・ホッファー自伝』『大衆運動』
金欠気味なので、どちらも再読。
自伝の方は作品社から出ていたものだが、7歳の時に突然失明し15歳の時に突然視力が復活するという氏は、40歳までの人生を振り返りつつもの静かに語る。
両親に先立たれ、孤独のうちに正規の教育をまったく受けず、ただただ読書と思索が好きであるがゆえ、日々食える程度の仕事だけを選んで生計を立てるのだが、40歳まで生きることに意味があるのかと自問の末に28歳の時に自殺を図るが未遂に終わり、そこから新たな人生観を身につけて季節労働者としてアメリカ西海岸地帯を放浪する。1941年サンフランシスコで港湾労働者(沖仲仕)の職に就き、以後26年間港湾労働者として働きながら著書を著し、カリフォルニア大学バークレー校で政治学を講じるまでになり、1983年81歳で逝去。
この自伝の中で語る著者はどこかストイックさを秘め、また社会の底辺にいる同類の人間たちをよく観察している。その眼差しは冷静かつ暖かい。
訳した中本義彦氏の文が良くて、エリック=ホッファーという人間が目の前で語っているように思えるほど。
が、そのホッファーが最初にものした『大衆運動(原題The True Believer)』の訳者高根正昭の方はもう酷いことこの上ない。
だいたいなんで原題The True Believerが大衆運動なのか?だ。1961年の日本という時代に迎合したタイトルの「意訳」をするくせに、中身はもう思いっきり直訳に近いもので、読みにくいこと読みにくいこと。
前半部はなんとか我慢しつつ読めるが、後半部にはもう自分で本に直接鉛筆で添削しながら読まないと、どこが主語かどこにこの言葉がかかっているのかということが分らなく、おまけに読点をやたらに打っているので意味が判然としなくなるのだ。だからかこの本は以前途中で放り出していた。
とにかく「これは」「彼は」が多く、いったい前の文のどれを「これ」や「彼」と言っているのか判別できないのだ。
とはいえ、この『大衆運動』の中にあるアフォリズムの数々には頷くところがあって、さすが「沖仲仕の哲学者」といわれるだけのものがある。
自分の環境を恐れている人びとは、その境遇がたとえどのようにみじめなものであっても、変化のことを考えるものではない。また私たちの生活様式があまりにも不安定なので、自分の生活環境を支配できないことが明らかなとき、私たちは、慣れた、試験ずみのものにしがみつく傾向がある。(中略)したがってきわめて貧しい者は、特権をもつ者が抱く保守主義と同様に根深い保守主義を抱いていて、彼らは社会秩序を永続させるという点において、特権をもつ人にまさるともおとらない要素となっているのである。※p7~8より抜粋
奴隷は貧困である。それにもかかわらず、奴隷制度が古くから普及しているところでは、大衆運動の発生する気配はまず存在しない。(中略)自由は、欲求不満を軽減する反面、少なくともそれと同程度に欲求不満をいっそう重くする。選択の自由は、失敗した場合の非難をことごとく個人に荷わせる。(中略)個人の責任から逃れるために、つまり熱烈な若いナチス党員の言葉でいえば、「自由から自由になるために」大衆運動に参加するのである。(中略)実は彼らは、責任から自由になるため、ナチ運動に参加したのではなかったろうか。p35〜36より抜粋
集団の中になじまず孤高を保って生きてきたホッファーは、集団による運動が持つヒステリーやファナティックさ、そして狂気を観察していたのだと思う。
農民作家である山下惣一氏やノンフィクション作家だった故松下竜一氏にも通じる、地を這うような孤独な思索による集団社会への冷徹な視線を感じざるをえない。

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